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反閇(=へんばい)

踏みつけられる男の体。ルーズソックスの脚が、男を蹂躙していた。
女が脚を振り上げる度、その張りのある太ももが揺れ、若い肉が踊る。ツヤツヤで肉付きのいい見事な太ももだ。
ブレザーのスカートの裾がめくれ、白い下着が自らの清純さを見せ付けるかのように時折姿をあらわす。身体のサイズにピタリと合うその下着は、尻・股間を見事に包みこみ、男をその中に誘い込もうとしていた。
身体を踏みつけるその瞬間、柔らかなふくらはぎは筋肉を収縮させ、キュッと締まる。その力強さ、筋肉の躍動に歯向うことなど不可能であった。
女は笑っていた。まだあどけなさを残すその表情が妖しくゆがませて。幼い瞳をギラギラとさせ、男を冷たく見下ろしていた。
男は勃起していた。興奮の頂点にいた。だが女の脚は男の全身を顔から足先まで、その全てをいたぶるが、男がもっとも踏まれたいはずの男根だけには触れようともしない。
もどかしさだけが溜まってゆき、男根はバキバキと音をたてそうな勢いにまで膨張していた。
男はもう、射精寸前だった。
その時、女は口元を官能的に吊り上げながら、言った。
「・・・ココも、踏んで欲しい?」
その時、男は・・・!

(江口)
# by gensouken | 2007-08-02 23:11 | 幻想総連

やみへ、の、らせん

 ・・・・・・ブウウ―――――――――――ンンン―――――――――ンンンン・・・・・・・・・・・・。
 かうした蜜蜂の唸るやうな音は、まだ、その彈力の深い餘韻を、わたしの耳の穴の中にハッキリと引き殘しながら、ウスウスと眼を覺ました。
 ・・・そして、ガバと跳ね起き、散歩に出た。
 深い闇の中を、夢遊病者のやうに彷徨つた。

 「海鰻莊」と書かれた表札が掲げられた、門のある大きな邸の角を曲がつたところで、キレイな光つたものが落ちてゐた。むかふの街かどで青い瓦斯の眼が一つ光つてゐるだけだつたので、それをひろつて、ポケットに入れるなり走つて歸つた。電燈のそばへ行つてよく見ると、それは空から落ちて死んだ星であつた。なんだ、つまらない!
 窓から捨ててしまつた。

 たまたま、そこを逗子に引き籠もつてゐるはあずの天才ピアニスト、日野涼子に似た氣品の高い美貌を持つた女性が足早に去つていつた。
 さつき窓から捨てたはずの、死んだ星は、どこにも見當たらなかつた。
 空には今日も、お月樣はゐなかつた。


 ・・・・・・ブウウ―――――――――――ンンン―――――――――ンンンン・・・・・・・・・・・・。
 かうした蜜蜂の唸るやうな音は、ヒキーキの音のやうでもあり、まだ、その彈力の深い餘韻をわたしは耳の穴の中にハッキリと引き殘してゐる。

 また闇の中を、夢遊病者のやうに、死んだ星を持ち去つた女の影を求めて彷徨ふ。
 卷き貝のやうになつた、わたしの耳の、らせんの遙か向かうから、微量のハマナスの記憶が漂う。
 「ハマナス・・・ハマナス・・・」
 うわごとのやうに呟く。
 記憶の斷片が、シャンパンの飛沫のやうに、靜かに、螺旋の底から湧き上がつてくる。

 銀座の服部の時計臺の下で、くたびれて、どうしようもなくなつた古市加十のやうになりながら、深い闇の底に誘はれ、引きずり込まれて行く。
 どこからともなく聞こえてくる、あれつきり姿の見えない、天才ピアニストの奏でる旋律が、ハマナスの記憶と共に、緩やかに迫り來る。

 その緩やかで、穩やかな旋律に、誘はれ、引きずり込まれ、深い闇への螺旋を、まるでタヒチの山奧に分け入つていく人見十吉のやうに、加速度的に分け入つてゆく。
 「もう拔け出せはしない・・・。」


卷貝のやうになつた、わたしの耳の螺旋は、瓶詰地獄への入り口なのかもしれない。


空には今日も、お月樣はゐなかつた。

(数式略)

持ち去られた、そらから落ちて死んだ星は、私の心・・・だつたのだ・・・!

(れ)
# by gensouken | 2007-07-29 09:00 | 幻想総連

『闇の左手』 アーシュラ・K・ル・グィン (ハヤカワ文庫、1978)

 雪と氷の惑星ゲセン、カルハイド王国に降り立った人類同盟エクーメンの使節ゲンリー・アイは、王国の政治的緊張が高まる中、敵対する隣国オルゴレインへの調査行を決意する。到着した街で、アイは失脚し国を追われたカルハイドの元高官、エストラーベンと再会する。エクーメンへの加盟を勧めるアイの説得は、カルハイド同様、ここオルゴレインでも頑迷な不信と猜疑に遮られ、難航を重ねる。やがてアイを襲う、間諜の疑いによる突然の逮捕、更正施設への収容。薬物により自白を強要され、心身共に衰弱しきったアイを救けだしたのは、かつてカルハイドでは互いの思考の異質さから、信を置くことのできなかった相手、エストラーベンだった。軌道上で待ち受けるエクーメンの星間船へ無線を送ることのできる街へ辿りつくためには、遙かにひろがる大氷原を横断しなければならない。極寒の冬が惑星を覆うなか、生命を賭けたふたりの逃避行がはじまる。時しも、両性具有人種であるゲセン人のエストラーベンは、性的分化の時期を迎えようとしていた。精神のみならず身体上の異質さをも目の当たりにするアイとエストラーベン。だが困難な旅は、しだいにふたりの心を通わせはじめていた……
 
 『闇の左手』という題名の鍵となる歌が、282-3ページに登場する。「光は暗闇の左手 暗闇は光の右手」というその歌のことばに象徴されるような、二元論的な対立とその統合が、ル=グィンのあらゆる作品を通底する問題である。
 このことばを理解するために、その概念の地球における対応物としてアイがエストラーベンに示してみせるのが、陰と陽の統一を示すいわゆる太極図だ(321ページ)。
 陰陽論であれば、わたしたちにもおなじみである。ひとことで言えばそれは、世界を構成するあらゆる要素を、陰と陽の対立するカテゴリーに分類してゆく二元的思考法だ。たとえば、天ー日ー火ー男……といったつらなりが陽の側に相当するとすれば、一方の陰の側では地ー月ー水ー女……がこれに対応する。そこには、天や地、日や月といったマクロコスモスと、男女の性をもつ人間=ミクロコスモスとの照応を見ることができる。
 この照応を支えているのは、空に太陽と月というふたつの天体があり、人にもまた男と女のふたつの性があるという、多分に偶発的な事実である。陰陽論的な二元的思考法は、人間が世界を把握するうえでのかなり強力なツールだが、それはこうした〈たまたま〉の要素から生み出された側面が大きい。仮に地球がふたつあるいはみっつ以上の月を持っていたとしたら、仮に人にひとつの性しかなかったとしたら(あるいは両性具有であったら……ゲセン人のように!)、そのときわたしたちは、いまとはまったく違った目で世界を眺めていたのではないか。精神のかたちを決定するものは、なにもDNAの鋳型だけではない。わたしたちをとりまく世界の構造そのものが、わたしたちの精神をかたちづくる鋳型なのだ。
 そしてわたしたちの語る物語にもまた、鋳型としての世界の刻印は拭いがたく印されている。
 たとえば、主人公が象徴的な死と再生を経て、ある種の力を手に入れるという物語は、あらゆる時代、あらゆる地域で、驚くほど普遍的に語られている。人類はつねにこうした物語とともにあったと言っていい。
 こうした物語=劇的構造が生み出された背後に、試練=少年としての死を経て新たに成人として生まれ変わるための、通過儀礼のパターンが存在することは、すでに多くの識者が指摘してきたところである。
 この死と再生の概念を生んだのはおそらく、沈んではまた昇る太陽、欠けてはふたたび満ちる月、冬に枯れては春にまた萌え出す草木といった自然の循環現象を、わたしたち自身の生に重ねあわせる見方であった。この重ねあわせにより、本来直線的であるはずの人間の生が、〈死と再生〉という循環運動を孕んで展開する螺旋体として把握されるのだ。
 だとすれば、こうした把握を土台に成り立つ物語もまた、地球が太陽の周りで円運動を行い、月という衛星を持ち、また地軸の傾きによる四季を有するというこの世界の構造そのものによって決定されていることになる。
 では、もしも地球に月がなかったら、もしも地軸の傾きがなく季節の移り変わりが存在しなかったら、つまりこの世界の構造がいまと違ったものだったとしたら、わたしたちの語る物語もいまとは違ったかたちになっていたのではないか?
 そのような異質な世界と思考の構造から生まれた物語がどのようなものになるのか、わたしたちには想像することさえ困難だ。しかし、想像できないものを想像するのがSFではないか。
 しかし実際には、この地球と異なる世界、異なる生物を数限りなく描きだしてきたSFが、そうした異世界や異生物を語る物語のかたちにはなんら意識的な視線を向けず、むしろありふれた、見慣れたかたちの物語を再生産しつづけてきたのは残念なことだ。
 ル=グインのSFにおける代表作である本書も、構造としてみれば、故郷を旅立った主人公が、たどりついたゲセンという異世界で、遍歴と試練の果てにある認識と外交上の成果を手に入れるという、見慣れた結構を持っている。一方で異世界ファンタジーの雄編『ゲド戦記』をものした作者だけに、こうしたかたちの物語はむしろお手のものだっただろう。
 ところが、そうした典型的な物語の結構をもつ作品の割には、『闇の左手』は率直に言って読みにくく、退屈でさえある。これだけ世に知られた名作でありながら、じつは読者に非常な困難をおぼえさせる作品がこの『闇の左手』なのだ。
 このある種のつまらなさの主な原因は、冬の惑星ゲセンという地味で陰気な舞台設定、作者の落ちついて抑制の効いた(むしろ効きすぎた)筆致、アクションシーンを排し内面描写に重きを置いたアプローチなどに、おそらくはある。
 だがもし、物語が派手なクライマックスをもたないことが、忍耐強く、性を二項対立として考えることのない両性具有人種であるゲセン人の精神の特性を、物語構造の上に反映するために意図されたものであったとしたら?また、アイの報告書に、エストラーベンの手記、カルハイドやオルゴレインの民話と伝説を織り交ぜる語りの手法が、文化人類学に造詣の深い作者が架空の民俗誌を装うための文学的スタイルである以上に、伝統的・直線的な物語構造の攪乱と転覆を狙ったものであったとしたら?
 ……おそらく、作者の念頭に、そのようなはっきりとした意図はなかったのだろう。にもかかわらず、そう考えてみたくなる誘惑を、わずかにせよ作品は持つに至っている。
 だからこそ『闇の左手』の物語としての退屈さは、ひとつの希望である。
(K)
# by gensouken | 2006-08-25 01:51 | 書評

「死後の恋」 夢野久作(『死後の恋』 現代教養文庫 1976年)

 大正七年、日本軍が統治する浦塩の町に「風来坊のキチガイ博士」と呼ばれる男がいた。歳の端は四十前後。旧式のボロ礼服を纏い、道行く人をつかまえてダシヌケに話しかけてレストランへとつれ込む。発語はいつもきまってこうだ。「私の運命を決定(きめ)てください。」
 このたび彼の空言につきあわされるのは日本軍兵站部に属する軍人。露西亜語は堪能にして、風体に家柄の良さが滲み出ている。本作は「キチガイ博士」のモノローグであるから、この軍人は我々読者と同じく終始聴き手役に徹している。そして、物語の最後に「キチガイ博士」の「運命を決定」める審判をする。軍人をレストランへ連れ込こむことに成功した「キチガイ博士」は、心底に渦巻く情意の奔流に思考を切断されながら、時に重複しながら縷々申し述べる。

 
「さよう......ただきいてくだされば、いいのです。そうして私がこれからお話しする恐ろしい「死後の恋」というものが、実際にあり得ることを認めてくださればよろしいのです。」「少々前置きが長くなりますが、注文がまいります間、ご辛抱くださいませんか……ハラショ……。」「……この広い世界中にタッタ一人でいいから、現在私を支配している世にも不思議な「死後の恋」の話を肯定してくださる方があったら……そうして、私の運命を決定してくださるお方があったら、その方に私の全財産である「死後の恋」の遺品(かたみ)をソックリそのままお譲りして、自分はお酒を飲んで飲んで飲み死にしようと決心したのです。」
 

 「キチガイ博士」の語るところによると、彼の本名はワーシカ・コルニコフ。革命で両親を失い、没落した貴族であるという。モスクワの大学では心理学を専攻し卒業後まもなく身分を隠して軍隊へ入隊した。上官及び周りの兵士は彼を弱虫と見なしていたため、彼の任務地は戦場より離れた司令部勤務が常であった。この措置は生来争いを好まない彼にとって好都合であった。ある時、部隊に彼よりもなよよかなリヤトニコフという青年が配属されてくる。貴族出身で目鼻立ちが整っている。
 緊迫した戦場にあって、彼は唯一無二の友を得た。互いになんということなしに惹かれあい、宗教、政治、芸術……暇さえあればよく語らいあった。趣味や好みがよく似ていた。彼は価値観を共有する他者を見つけて涙がでるほど嬉しかった。次第にうち解けていく二人は、兄弟同様に親切にしあった。二人の仲は分かちがたいものである。二人の関係を雄弁に語る「博士」。ところが、神経症的な性格からか、次のように釘を刺す。

 
「…といってもけっして忌まわしい関係なぞを結んだのではありませぬ。あんな事は獣性と人間性の気質を錯覚した、一種の痴呆患者のすることです……」
 

 「博士」のこの口調は、いささかその手の恋愛に対してトゲがありすぎはしないだろうか。本作ではここに注目すべきである。こと恋愛に限っては(いや、限らずとも)過剰な否定表現は、本音での肯定をあらわしてはいないだろうか。男とは知りながら「キチガイ博士」はリヤトニコフを愛していた。本作の面白さは、「博士」の感情の揺らめきである。外聞を気にしながら、建前と本音の間で彼の心は揺らめく。そこが見所である。
 ある時、「博士」とリヤトニコフの部隊にニコラス二世が過激派に銃殺されたという噂が流れる。意気消沈した様子のリヤトニコフは、「博士」に目配せをして人気のない厩へ誘う。そこでリヤトニコフが自分の身の上を告白する。自分がロマノフ王家の人間であることや革命勢力を忍んで白軍に入隊した経緯、そして「博士」が息をのむほど美しい宝石を見せた。この宝石は、リヤトニコフの両親が彼の身分の証明と、血筋を絶やさず家を再興するための家婚資金として渡された物だそうだ。
 リヤトニコフの様子から「博士」に対して募る思いを抱いていると判じられる。精神的に博士に寄り添おうとしたのだろう。一方、「博士」の心情は本音と建前の間で揺れている。あくまでも揺れているのみで、リヤトニコフの気持ちが自分の方に向いているという可能性を見つけ出すことができない。さらに残念なことに、彼の心は宝石に魅了されてしまっていた。リヤトニコフから奪ってまでも自分の物にしようと考え、彼の戦死さえも願うほどであった。そして、「博士」にとっての「幸運」(!?)はすぐに訪れるのである。
 彼らの部隊は行軍中に草原に差し掛かったおり、敵軍の奇襲にあう。部隊は総崩れし、近くの林に逃げ込んだ。逃げ遅れた「博士」は足に被弾し、草むらに伏す。「博士」を気遣うリヤトニコフは幾度もふり返りながら、皆より遅れて林の中に消えていった。その瞬間林の中へ向かって、敵軍の激烈な機銃掃射の轟音が響く。茫然自失する「博士」は吸い込まれるように林へ向かう。彼が林に向かった理由は明確に書かれてはない。自暴自棄。それとも、死への衝動。ここでは「博士」が愛するリヤトニコフの安否を知りたかったからだ」としたい。本文には「博士」以外の声で、「リヤトニコフは博士を愛している。」と書かれていないのだから、この判断はいささか勇み足かもしれない。とはいえ、リヤトニコフの気持ちを「博士」の言葉を介してからしか推し量ることができないことも、本作のニクイところである。(そういえば、「湖畔」も…。)
 さておき、林のなかの惨劇を前にして「博士」は愕然とするしかなかった。見るも無惨な死体がたくさんあった。彼は時を忘れていた。見上げれば星が瞬きはじめていた。束の間、リヤトニコフの宝石の輝きが脳裏をよぎる。「宝石」が意識にのぼったのは、この時が初めてである。彼はガソリンマッチを取り出して火を灯した。おどろどろしい惨状のなかを歩く彼は、とうとうリヤトニコフ屍体を見つける。「博士」の語るところは以下である。

 
「……その姿を見たときに私は、なんだかわからない奇妙な叫び声をあげたように思います。……イヤイヤ。それはその眼付が怖ろしかったからではありません。……リヤトニコフは女 性だったのです。しかもその乳房は処女の乳房だったのです。……ああ……これが叫ばずにおられましょうか。混迷せずにはおられましょうか。……ロマノフ、ホルスタイン、ゴットルプ家の真個(まこと)の末路……。
 彼女……私はかりにそう呼ばせていただきます……彼女は、すこし遅れて森に入ったために生け捕りにされたものと見えます。そうして、その肉体は明らかに「強制の結婚」によって蹂躙されていることが、その唇を隈どっている猿轡の瘢痕でも察せられるのでした。のみならず、その両親の慈愛の賜である結婚費用……三十幾粒の宝石は、赤軍がよく持っている口径の大きい猟銃を使ったらしく、空砲に籠めて、その下腹部にうちこんであるのでした。私が草原を匍っているうちに耳にした二発の銃声は、その音だったのでしょう……そこのところの皮と肉が破れ開いて、内部から掌ほどの青白い臓腑がダラリ垂れ下がっているその表面に血まみれたダイヤ、紅玉(ルビー)、青玉(サファイヤ)、黄玉(トパーズ)のかずかずがキラキラと光りながら粘りついておりました。
 ……お話というのはこれだけです。……「死後の恋」とはこの事を言うのです。」


 「強制の結婚」という内容に関して、誰しもが怒りや憤り筆舌に尽くしがたい感情を抱くに違いない。ここで「我々は作者が小説の素材として誰しも感情的になりやすい内容を意図的に選択しているということを知っている。」という共通の理解の上に立って思考すべきだ。
 衝撃をともなって、実はリヤトニコフが女性だったことが明かされる。「禁断の愛」の禁が解かれた瞬間と同時に「死後の恋」として「博士」の心を呪縛することになった。この呪縛を解き放つには、冒頭「博士」が言ったように、この話が空言などではなく真実であるとことを他者に保証される必要がある。さて本作読者の代表、日本軍兵站部軍人はいかように処したか。「博士」とのやりとりは以下である。

  「エッ……、エッ……私の話が本当らしくないって……。
   ……ああ……どうしよう……ま……待ってください。逃げないでくださいッ。
   ああッ…
   アナスタシヤ内親王殿下……。」
 軍人は、「遺品」を受けとらず立ち去る。「博士」の話は悲劇ゆえ、空言であると断ずるほうが「博士」に対するやさしさなのかもしれない。「博士」に少しでもフレディー・マーキュリーの如き感性があれば、「死後の恋」になることはなかったであろう。しかしながら、そうした場合は内親王として愛することはできなかった……。それはさておき、「博士」が「リヤトニコフ」を男性だと思っていた時の描写は以下の二カ所である。まず、初めて二人があった時の人物評定。

「起居動作が思いきって無邪気で活発な、一種の躁(はしゃ)ぎ屋と見えるうちに、どことなく気品を保っているように思われる十七、八歳の少年兵士で、まっ黒く日に焼けてはいましたけれどもたしかに貴族の血を享けていることが、その清らかな目鼻立ちを見ただけでもわかるのでした。」

 そして、機銃掃射を受ける前の行軍中の姿である。

  
「先頭の将校のすぐうしろについているリヤトニコフが帽子を横ッチョに冠りながら、ニコニコと私をふり返っていく赤い頬や、白い歯が、今でも私の眼の底にチラついています。」

 筆者は中性的にリヤトニコフを描いている。そこで読者は一度読みの際はリヤトニコフをなよよかな少年兵として読み、二度読み以降は男装した内親王のけなげな姿を思い浮かべる。読後感が劇的に変化するという点において、本作は絶対に読み返したい作品である。
 最後に僕の感想をつれづれに。本作は舞台設定が見事であると思った。日本軍統治下の「浦塩」とそこに住まう「キチガイ博士」。日常とは遠く離れた世界と人物。「博士」の「イヤイヤ……ア……ハラショ……。」という言葉遣いがさらに違和感を醸し出す。「博士」の見てくれは四十歳だが、実のところ二十四歳。あのリヤトニコフの事実を知り、衝撃のあまり一夜にして白髪交じりのあたまになり、げっそりと痩せ細ってしまったという。一夜にして老化という出来事から、もちろん僕も「浦島太郎」を思い浮かべた。
 『室町御伽草子』に収録されている「浦島太郎」では、浦島が助けた亀は乙姫であるという設定であり、彼女は亀姫と呼ばれている。浦島が釣りをしていると亀姫が自ら彼を竜宮へいざなう。三年を経て両親に会いたくなった浦島は、玉手箱を渡されて地上へもどる。ところが、村では三百年の時が経っており、知己はない。悲しみにくれた浦島は、絶対に開けてはいけないと言われていた玉手箱を開けてしまう。開けたと同時に、煙に包まれた浦島は鶴になっていた。「鶴は千年亀は万年」というように、浦島と亀姫の愛は世俗の時間を超えて物語という永遠の時のなかを生きるのであろう。
 「死後の恋」において、読者の希望としてはコルニコフ(キチガイ博士)と彼女の愛が長く続いて欲しい。そうするならば、読者は浦島に向かって「お前など知らぬ。お前の言う人はもうすでに、亡くなっておるぞ。」と言った村人のようにして、兵站部の軍人の如く「キチガイ博士」に向かって「空言に過ぎぬ。」と言い放つしかない。恋愛譚の作中人物としてのコルニコフの恋を生かして、物語の語り部としてのキチガイ博士の生を永らえる唯一の方法がこれなのである。作品という異界の住人であればこそ、日常の規範の時間を超えた物語の形で永久に結ばれることができるのだから。
(野風 (やぷう) )

# by gensouken | 2006-07-24 13:02 | 書評

「湖畔」久生十蘭(『無月物語』現代教養文庫 1977年)

 赤血球を濃度の高い水溶液のなかへ入れる。赤血球は水溶液に水分を奪われて収縮する。この作品にはあまりに濃度の高い愛が描かれているため、読者の心を極度に収縮させてしまう。もし、貴方が愛に枯渇絶望しているのなら何よりも危険だ。激しい浸透圧により、貴方の涙はすぐに枯れてしまうだろう。
 本作は生涯を誰からも愛されることはないと断じこんだ男が「愛の証拠」を得る物語である。「愛の証拠」を得ることができれば、貴方は愛する人から自分が愛されているのだと確信を持つことができる。この確信は男を成長させるので、同時に本作は主人公である男の成長譚であると言える。体面ばかり取り繕うことに気を揉んでいた男が、過剰な自意識を手紙に綴ることで対象化し、自己像を再構築する物語である。
 慶応二年、男は奥平正高の継嗣として長坂松山城内に生まれる。遣欧使節団の一人であった父の希望により、男は英国流の貴族になるように語学から西洋礼式にいたるまで教育を施される。この父は台頭してきた新華族を忌避し、貴族政治を執政する人材に男を育て上げるため倫敦へ遊学させる。父に似て男は選民感が強く、顕裔門閥を非常に誇りにしていた。
 この選民感は男の自意識を頑なにした。自分の面相は醜悪であると決めこみ、女性に対して自信を持つことができなかった。自意識が他者の愛を素直に受け入れることを阻んでいた。男、顧みて云う。

「それにしても俺はどんなに人に愛されたいと思ったか知れぬ。もしそのような相手に行き逢っ
たら、その人のためにいつでも命を捨てようと、二六時中、心のうちで誓っていた。13才の時のことである。俺の心は自信を失って萎縮しているものだから、他人の愛の証拠を求める前に、失望したときのはかなさを考え、殊更に無愛想を装って自分から身を引いてしまうのだ。」

 肥大した自意識は自信を喪失させ、他人に愛を拒まれることを必要以上に恐れさせた。男は留学先で放蕩の限りを尽くし、夜毎娼婦を買った。愛される事を期待しながら傷つくことを避け、満たされぬ心を誤魔化していた。一夜を添う女性に「愛の証拠」を求めていたのだ。
 留学先で男は自信の無さを覆い隠すため粗暴に振る舞った。ある時、強がりが裏目にでて拳銃を使った決闘を申し込まれることになった。恐怖に駆られ首を右側に傾けたことが災いし、銃弾を打ち込まれて頬から耳殻にかけて大きな裂創を負う。以後、男は他人に顔を見られること恥じて家に籠もった。
 閉じ籠もっていては運命を拓くことはできない。男は療養の為、箱根の底倉へ湯治に行く。湯場にある木橋の上で、花かんざしをつけた上品な少女とすれ違った。その少女をひと目見て恋をする。男の喜びようと言ったらない。「ロミオとジュリエット」などを挙げて「一目惚れ」の素晴らしさを称揚する。男曰く「枯渇絶望した俺の心に微かな希望が萌えだした」。
 考えてみるに、男性でも女性でも異性の心ほどわからぬものはない。花かんざしの少女、陶(すえ)は男のことが気になっているように思える。ある時、男が湖畔の石に腰掛けていると一艘のボートが寄ってきた。陶が男の傍へとボートを着けた。男は内心「震え上がッてにげだしそうに」った。男、往時を振りかえる。

「そうして淀まぬ眼差で俺の顔を瞶め、愛らしく首をかしげながら、「お乗りになりませんか」と人懐っこく誘いかけた。その挙動がどれほど清楚な情緒に充ち、どれほど優美な感情に溢れていたか、とても描き写すことができぬ。活溌だがけッして出すぎたというのではなく、無邪気で人付きがいいので、ただもうおのれの愉快を俺にも分け与えたいという風だッた。
 俺は喜悦の情で飛立つような思いをしていたが、本心を見抜かれるのを恥じ、「サンキュー」といったっきり腰もあげなかった。
 心中の苦悶は非常なもので、俺の無愛想な仕草が少女を怒らせ、このまま漕去ッてしまったらどうしようと足摺りせんばかりに焦立っていた。」

 男の成就を阻むのは「体裁」である。おそらくこの文章を読んで、はにかんだ表情を浮かべた読者は私だけではあるまい。同様に好きな異性の前では、少しカッコつけてみようとするのは私だけではないはずだ。十蘭は些細な心の動きを描写しており、読者の心の襞を軽く撫でる。その点で十蘭はユーモアの名手である。
 男はプロポーズをするにしても撥ねつけられた時の体面を気にして、陶に心の内を聞くことなく有無を言わせず妻にする。婚姻後も男は陶に厭われることを気にして、故意に無愛想な紳士を決め込む。元々男の性欲は満ち溢れるほど強いのだが、一月に一度に抑えて冷淡に一夜を過ごすだけであった。これも陶に愛を失わんがため、自信の持てない男の苦肉の策であった。
 しかし、男の意に反してこの振る舞いが裏目にでた。男から愛されたいと感じていた陶は「浮気」をする。陶の「浮気」は相手に男の口ぶりや物まねをさせて、上手に真似できた時にだけ関係を持つというものだった。陶は封建的な家制度の妻として不貞であるが、愛を求める者としては全く恥じた行為ではないと言う。

「妾はそうはおもいません。なぜって、妾は貴君とばかり、ずゥっといっしょに居たンですもの」

 男への想いを貫徹したこの言葉は、極めて愛の濃度が高い。参加型の読者である私の心は拉げていった。「常識」では二人の関係が破滅に向かう展開であるが、本作では「常識」の側が敗北し愛が顕現する。陶の「浮気」は封建的家制度に拘泥し自意識過剰に陥った男の心を救出する機会を作った。男の自意識は父譲りの貴族主義や選民感に基づいて成り立っていて、封建的家族制度はこの二つを支える大前提である。この前提が破壊されれば、自ずから「体裁」などに気を揉む必要などない。
 「浮気」発覚の直後、男はこのことが千載一遇の機会であることに気がついていない。男は陶を足蹴にし、殺害を思いつく。その後の本作の展開は特に面白いので敢えてここでは述べない。それは本作の語り手である男の任である。やや、しばらく物語が進んで陶が短刀を持ち男の前に現れる。

 
「「貴君を殺して妾も死ぬつもりで来たンですから、もう名聞なんかどうだっていいんです。ねえ、どうか一緒に死んで頂戴」と言いつつ帯の間から鞘のままの短刀を抜き出して見せた。
 世に能弁利口、人に取り入ることの巧妙な者があって、それが千万言を費やそうとも、陶の一言ほどには俺の心霊を震盪させえなかったろう。俺は真実陶に愛されていたことを、この時卒然とコンプリヘンドした。(略)
俺は嬉しさのあまり泣いて居た。陶がハンカチで度々俺の涙を拭ってくれていたようだッた。」

 この陶の言葉と行為こそ男が待ち望んだ「愛の証拠」を見出す瞬間である。前掲のように男は13歳の時に、もし自分を愛してくれる人がいたら、その人の為に命を捨てようと思っていた。男にとって「死」ぬことのメタレベルの意味は、封建的家族制度内での「死」である。故に冒頭部で失踪を宣言するのである。
 同時に男はいま自分を殺そうという人間に涙を拭ってもらっている。男の得ようとする愛は究極である。「もう名聞なんかどうだっていいんです。ねえ、どうか一緒に死んで頂戴」などという言葉を聞いては男でなくとも涙したくなる。
 本作は父からまだ幼い息子へ宛てた手紙という形で書かれている。男は語り手であるから、さまざまな出来事は男にとっては事後なのである。男は陶によって自意識の壁を穿つ契機を得た。壁全体を破壊するまでいたったのは、陶と男の努力である。特に手紙の書きぶりは、出来事を慎重に言語化してかつての自分に距離を置いて対象化している。

「後になって思うと、陶のこうした振る舞いは、陰気な俺の気持ちをいくらかでも賑わしてやりたいという、純真な試みだッた…(略)」

 二度読み以降、一度ストーリーを知ってしまえば、この手紙の端々に陶をおもいやる優しさが現れてくる。時より言葉端から男の得意げな表情も読み取れる。本作は繰り返して読む度に人物造詣に深みが増し読者を魅了する。十蘭の構成力に嘆息する一冊である。
 さて、私は男と陶が「愛の証拠」を得たことを十蘭や多くの読者の輪に加わって祝いたい気持ちでいっぱいである。
(野風)
# by gensouken | 2005-12-24 12:30 | 書評