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「湖畔」久生十蘭(『無月物語』現代教養文庫 1977年)

 赤血球を濃度の高い水溶液のなかへ入れる。赤血球は水溶液に水分を奪われて収縮する。この作品にはあまりに濃度の高い愛が描かれているため、読者の心を極度に収縮させてしまう。もし、貴方が愛に枯渇絶望しているのなら何よりも危険だ。激しい浸透圧により、貴方の涙はすぐに枯れてしまうだろう。
 本作は生涯を誰からも愛されることはないと断じこんだ男が「愛の証拠」を得る物語である。「愛の証拠」を得ることができれば、貴方は愛する人から自分が愛されているのだと確信を持つことができる。この確信は男を成長させるので、同時に本作は主人公である男の成長譚であると言える。体面ばかり取り繕うことに気を揉んでいた男が、過剰な自意識を手紙に綴ることで対象化し、自己像を再構築する物語である。
 慶応二年、男は奥平正高の継嗣として長坂松山城内に生まれる。遣欧使節団の一人であった父の希望により、男は英国流の貴族になるように語学から西洋礼式にいたるまで教育を施される。この父は台頭してきた新華族を忌避し、貴族政治を執政する人材に男を育て上げるため倫敦へ遊学させる。父に似て男は選民感が強く、顕裔門閥を非常に誇りにしていた。
 この選民感は男の自意識を頑なにした。自分の面相は醜悪であると決めこみ、女性に対して自信を持つことができなかった。自意識が他者の愛を素直に受け入れることを阻んでいた。男、顧みて云う。

「それにしても俺はどんなに人に愛されたいと思ったか知れぬ。もしそのような相手に行き逢っ
たら、その人のためにいつでも命を捨てようと、二六時中、心のうちで誓っていた。13才の時のことである。俺の心は自信を失って萎縮しているものだから、他人の愛の証拠を求める前に、失望したときのはかなさを考え、殊更に無愛想を装って自分から身を引いてしまうのだ。」

 肥大した自意識は自信を喪失させ、他人に愛を拒まれることを必要以上に恐れさせた。男は留学先で放蕩の限りを尽くし、夜毎娼婦を買った。愛される事を期待しながら傷つくことを避け、満たされぬ心を誤魔化していた。一夜を添う女性に「愛の証拠」を求めていたのだ。
 留学先で男は自信の無さを覆い隠すため粗暴に振る舞った。ある時、強がりが裏目にでて拳銃を使った決闘を申し込まれることになった。恐怖に駆られ首を右側に傾けたことが災いし、銃弾を打ち込まれて頬から耳殻にかけて大きな裂創を負う。以後、男は他人に顔を見られること恥じて家に籠もった。
 閉じ籠もっていては運命を拓くことはできない。男は療養の為、箱根の底倉へ湯治に行く。湯場にある木橋の上で、花かんざしをつけた上品な少女とすれ違った。その少女をひと目見て恋をする。男の喜びようと言ったらない。「ロミオとジュリエット」などを挙げて「一目惚れ」の素晴らしさを称揚する。男曰く「枯渇絶望した俺の心に微かな希望が萌えだした」。
 考えてみるに、男性でも女性でも異性の心ほどわからぬものはない。花かんざしの少女、陶(すえ)は男のことが気になっているように思える。ある時、男が湖畔の石に腰掛けていると一艘のボートが寄ってきた。陶が男の傍へとボートを着けた。男は内心「震え上がッてにげだしそうに」った。男、往時を振りかえる。

「そうして淀まぬ眼差で俺の顔を瞶め、愛らしく首をかしげながら、「お乗りになりませんか」と人懐っこく誘いかけた。その挙動がどれほど清楚な情緒に充ち、どれほど優美な感情に溢れていたか、とても描き写すことができぬ。活溌だがけッして出すぎたというのではなく、無邪気で人付きがいいので、ただもうおのれの愉快を俺にも分け与えたいという風だッた。
 俺は喜悦の情で飛立つような思いをしていたが、本心を見抜かれるのを恥じ、「サンキュー」といったっきり腰もあげなかった。
 心中の苦悶は非常なもので、俺の無愛想な仕草が少女を怒らせ、このまま漕去ッてしまったらどうしようと足摺りせんばかりに焦立っていた。」

 男の成就を阻むのは「体裁」である。おそらくこの文章を読んで、はにかんだ表情を浮かべた読者は私だけではあるまい。同様に好きな異性の前では、少しカッコつけてみようとするのは私だけではないはずだ。十蘭は些細な心の動きを描写しており、読者の心の襞を軽く撫でる。その点で十蘭はユーモアの名手である。
 男はプロポーズをするにしても撥ねつけられた時の体面を気にして、陶に心の内を聞くことなく有無を言わせず妻にする。婚姻後も男は陶に厭われることを気にして、故意に無愛想な紳士を決め込む。元々男の性欲は満ち溢れるほど強いのだが、一月に一度に抑えて冷淡に一夜を過ごすだけであった。これも陶に愛を失わんがため、自信の持てない男の苦肉の策であった。
 しかし、男の意に反してこの振る舞いが裏目にでた。男から愛されたいと感じていた陶は「浮気」をする。陶の「浮気」は相手に男の口ぶりや物まねをさせて、上手に真似できた時にだけ関係を持つというものだった。陶は封建的な家制度の妻として不貞であるが、愛を求める者としては全く恥じた行為ではないと言う。

「妾はそうはおもいません。なぜって、妾は貴君とばかり、ずゥっといっしょに居たンですもの」

 男への想いを貫徹したこの言葉は、極めて愛の濃度が高い。参加型の読者である私の心は拉げていった。「常識」では二人の関係が破滅に向かう展開であるが、本作では「常識」の側が敗北し愛が顕現する。陶の「浮気」は封建的家制度に拘泥し自意識過剰に陥った男の心を救出する機会を作った。男の自意識は父譲りの貴族主義や選民感に基づいて成り立っていて、封建的家族制度はこの二つを支える大前提である。この前提が破壊されれば、自ずから「体裁」などに気を揉む必要などない。
 「浮気」発覚の直後、男はこのことが千載一遇の機会であることに気がついていない。男は陶を足蹴にし、殺害を思いつく。その後の本作の展開は特に面白いので敢えてここでは述べない。それは本作の語り手である男の任である。やや、しばらく物語が進んで陶が短刀を持ち男の前に現れる。

 
「「貴君を殺して妾も死ぬつもりで来たンですから、もう名聞なんかどうだっていいんです。ねえ、どうか一緒に死んで頂戴」と言いつつ帯の間から鞘のままの短刀を抜き出して見せた。
 世に能弁利口、人に取り入ることの巧妙な者があって、それが千万言を費やそうとも、陶の一言ほどには俺の心霊を震盪させえなかったろう。俺は真実陶に愛されていたことを、この時卒然とコンプリヘンドした。(略)
俺は嬉しさのあまり泣いて居た。陶がハンカチで度々俺の涙を拭ってくれていたようだッた。」

 この陶の言葉と行為こそ男が待ち望んだ「愛の証拠」を見出す瞬間である。前掲のように男は13歳の時に、もし自分を愛してくれる人がいたら、その人の為に命を捨てようと思っていた。男にとって「死」ぬことのメタレベルの意味は、封建的家族制度内での「死」である。故に冒頭部で失踪を宣言するのである。
 同時に男はいま自分を殺そうという人間に涙を拭ってもらっている。男の得ようとする愛は究極である。「もう名聞なんかどうだっていいんです。ねえ、どうか一緒に死んで頂戴」などという言葉を聞いては男でなくとも涙したくなる。
 本作は父からまだ幼い息子へ宛てた手紙という形で書かれている。男は語り手であるから、さまざまな出来事は男にとっては事後なのである。男は陶によって自意識の壁を穿つ契機を得た。壁全体を破壊するまでいたったのは、陶と男の努力である。特に手紙の書きぶりは、出来事を慎重に言語化してかつての自分に距離を置いて対象化している。

「後になって思うと、陶のこうした振る舞いは、陰気な俺の気持ちをいくらかでも賑わしてやりたいという、純真な試みだッた…(略)」

 二度読み以降、一度ストーリーを知ってしまえば、この手紙の端々に陶をおもいやる優しさが現れてくる。時より言葉端から男の得意げな表情も読み取れる。本作は繰り返して読む度に人物造詣に深みが増し読者を魅了する。十蘭の構成力に嘆息する一冊である。
 さて、私は男と陶が「愛の証拠」を得たことを十蘭や多くの読者の輪に加わって祝いたい気持ちでいっぱいである。
(野風)
by gensouken | 2005-12-24 12:30 | 書評


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